2011-09-29

意見いけん表明ひょうめい

小学校しょうがっこう保育園ほいくえんのそばをとおり、そこで軍隊ぐんたいみたいな号令ごうれいくたびに、わたしはやるせなくなる。

子供こどもきていることはわたしには奇跡きせきおもえる。

奇跡きせきはもうこっているのだ。

2011-09-27

大人は子供から学びたい

前回の続き。

本当に、一日のこととは思えないくらいに沢山のことを私は学んだのだった。

確か「かわりおに」と呼ばれていた遊びもそのひとつ。すべり台を使った遊びで、ひとりの人が、すべり台をおりて砂場をこえようとする人をつかまえようとし、つかまえられたら役割交代。つかまえる人はすべり台に触れてはならず、砂場から出てもいけない。そしてすべり台にいる人が残り二人になったらジャンプしても良く、一人になったらすべり台にのぼっても良い…というように、細かく規則が決められているのだが、しかし何という楽しい規則だろう!

物語を書く人であり詩人の秋川ゆみさんはこう言う。
大人は子どもに規則きそくを教えることしかできませんが、子どもはわたしたちにやさしさと自由じゆうを教えてくれます。
(秋川ゆみ。岡本美子。1996年。『香水こうすいになった女の子』 。文研出版。)
大人が規則を教えると私は何年もの間思ってきた。しかし子供は「規則」をもたないわけではない。

あの遊びの「規則」は大人が教える「規則」では明らかにない。

楽しむための規則なんだ。年齢が小さい子が相手の時にはつかまえる人は「弱気になる」というような思いやる規則もあるらしいし。

ということは、「規則」とはいっても二つの種類の「規則」があるのではないか。

一方は、規則を破ると生きていけないぞとか、暴力を振るうぞというような、脅しでもって押し付ける規則。もう一方は、より楽しむための規則。

このことに思い至ってから、これを思うたびに私は震えがとまらない。

これが子供のやり方なんだ。これが「規則」との子供の関わり方なんだ。「規則」の意味を変える子供なりのやり方なのだ。

集団のあり方についても述べておきたい。

公園ではいくつかの集団に分かれていて、「ここにいる皆が友達なわけではな」く、すべり台が違う集団に使われているときにはすべり台を使った遊びはできないが、しかしあきそうになった頃を見計らってすばやくすべり台に移動し、すべり台の使用の集団から集団への移行はなめらかにいく。この移行のあざやかさ!

狩猟採集民族的であり、武力紛争のない世界への大きな鍵がここにあると思う。

言葉を交わしているわけではない。何も言わずとも、お互いの集団について察しているあるいは分かっているのだ。

そしてすべり台での集団の遊びのときに違う子がのぼってきたら、遊びは自然に中断する。排除はしない。

私は別に研究しようとか学ぼうと思って公園に行ったのではない。(絵を描こうと思ったら、とある集団にまきこまれただけです。だから前の記事は「私は何をしているのか」という題なのです。)学ぶつもりはなかったのに学べることこそ嬉しいことだ。

大人へけんかを売るよりは、子供を楽しませたい。

書き改め:私は何をしているのか
(私は子供を「甘やかす」か)

公園で楽しかったな。やたらと「ばか」と言う子供たちと出会えて。

私は大人は「ばか」だと思っているし、だから(つい先日三十にもなってしまった)私が子供から「ばか」と言われても私は反論はしない。

本当の芸術家にも出会えた。サッカーボールが頭に当たってもわき目も振らずに絵を描き続けるその集中力にはおそれいった。それだけではない、なんと砂に絵を描く実演も見せてくれた。その絵を何のためらいもなく消し去る様を見て、まるでジョン・シンガー・サージェントさんが油絵のスケッチを上書きして全く別のスケッチを始めて、いきいきとしたスケッチが情け容赦なく消し去られるのをそばで見て涙が出そうだったとある人が言ったように、私もいい絵が消し去られるのを見て痛恨の思いに駆られ、そして驚嘆したのだった。これこそが芸術家魂だ。

財布を取られるという出来事もあった。良識ある大人として「財布を取るのはいけないよ」とつい言ってしまったが…。

まあ、おかしいね。貧しい人たちがいる今の世の中で、お金を持っているというのはそれだけで泥棒みたいなものだと私は思う。しかもどんな手段でお金を稼いでいるかというと、心の底ではいいことだとは思っていないけれど命令だからやるというような、やましいことをしているものだ。はい、私もそんな「ばか」だろう。

せめて「私みたいな貧乏人から(お金を取るのはいけないよ)」と対象を限定して言ったら良かったかもしれない。

ずいぶん騒いでしまって、こちらをじっと見ているおばさんらの視線が少し気になった。大人の私が子供に好き勝手に振舞わせている、子供を「甘やかす」と思われるかな。公園を散らかしてしまったし。

しかしたとえばポイ捨ての問題にしても、捨てる方が悪いというよりは、捨てても土にかえらないものを製造する方が悪いとする見方もできる。よって、「ぽいと捨てることが悪いことだ」というのはかたよった見方であるし、また、真剣に怒るような事柄ではない。

(しかし公園に紙が散らかっているのは少し問題のように大人である私は思ったので、後で片付けましたが。)

私は基本的に、子供が何をしようと、それが自分あるいは他人を傷つける行為でない限り、注意はしない。(そしてあえて注意を聞かない場合には必ず理由があるはずだし、そこを常に想像したい。)

「砂をかけるのはいけないよ」と諭すように言ってしまったことを後悔している。私に砂をかけることの何が問題なのか。汚れたら洗えば良いだけではないか。少なくとも私は砂をかけられたぐらいで死にはしない。それを言うなら、小さい子がそばにいる時には、目や口に入ると困るからいけないと状況を限定して言うべきだった。

しかし何よりも後悔しているのは、凶暴に(笑)振舞う子(のひとり)に対して、また来るかという話のときに、「君は来なくていいよ」と言ってしまったことだ。いくら冗談のつもりとはいえ、これは大人が子供に対して絶対に言ってはならない言葉でした。急いで言い直したが、この言葉がその子の心に残らないことを願う。そして次に会うときには謝ろう。そして言い直そう。「君が来てうれしい」と。どれだけ凶暴に(笑)振舞われようとも。

次に会うことがあったら。

2011-09-26

私は何をしているのか
(私は子供を「甘やかす」か)

公園で楽しかったな。やたらと「ばか」と言う子供たちと出会えて。


私は大人は「ばか」だと思っているし、だから(つい先日三十になってしまった)私が子供から「ばか」と言われても私は反論はしない。


本当の芸術家にも出会えた。サッカーボールが頭に当たってもわき目も振らずに絵を描き続けるその集中力にはおそれいった。それだけではない、なんと砂に絵を描く実演も見せてくれた。その絵を何のためらいもなく消し去る様を見て、ジョン・シンガー・サージェントさんが油絵のスケッチを上書きして全く別のスケッチを始めて、いきいきとしたスケッチが情け容赦なく消し去られるのをそばで見て涙が出そうだったとある人が言ったように、私も絵が消し去られるのを見て無念の念に駆られ、そして驚嘆したのだった。これこそが芸術家魂だ。


財布を取られるという出来事もあった。良識ある大人として「財布を取るのはいけないよ」とつい言ってしまったが、これは貨幣制度の廃止を願う私にとって難しい問題だ。


貧困のある現代においてお金を持っている人はそれだけで泥棒であると私は思う。三十年この世に生きてきた経験から言わせてもらうと、お金を稼ぐ人はやましいこと(すなわち自分の意にそぐわないこと)をしている。そう、私もそんな「ばか」だろう。


せめて「貧乏人の私からお金を取るのはいけないよ」と対象を限定して言ったら良かったかもしれない。


ずいぶん騒いでしまって、こちらをじっと見ているおばさんらの視線が少し気になった。


公園を散らかすことについて私は厳しくは言わない。たとえばポイ捨ての問題にしても、捨てる方が悪いというよりは、捨てても土にかえらないものを製造する方が悪いとする見方もできる。簡単に捨てられないものが製品としてあるこのような世の中にしたのは子供の責任ではない。よって、「ぽいと捨てることが悪いことだ」という一方的な価値観は子供に教えるべきことだとは言えない。(あえて教えるべきことがあるとすれば、それは現代において問題が存在するということであって、どれが良い悪いという価値観ではない。)


しかし公園に紙が散らかっているのは少し問題のように大人である私は思ったので、後で片付けましたが。


私は基本的に、子供が何をしようと、それが自分あるいは他人を傷つける行為でない限り、注意はしない。(そしてあえてその注意を聞かない場合には必ず理由があるはずだし、そこを常に想像したい。)


「砂をかけるのはいけないよ」と諭すように言ってしまったことを後悔している。私に砂をかけることの何が問題なのか。汚れたら洗えば良いだけではないか。少なくとも私は砂をかけられたぐらいで死にはしない。それを言うなら、小さい子がそばにいる時には、目や口に入ると困るから止めろと状況を限定して言うべきだった。


しかし何よりも後悔しているのは、凶暴に(笑)振舞う子(のひとり)に対して、また来るかという話のときに、「君は来なくていいよ」と言ってしまったことだ。いくら冗談のつもりとはいえ、これは大人が子供に対して絶対に言ってはならない言葉でした。急いで言い直したが、この言葉がその子の心に残らないことを願う。そして次に会うときには謝ろう。そして言い直そう。「君が来てうれしい」と。どれだけ凶暴に(笑)振舞われようとも。


次に会うことがあったら。

2011-09-21

Pentrado i lo nu pirfi'i

表現ひょうげんしてせば、わたしらくになる。

Mi esprimas miajn sentojn, kaj do mi sentas min trankvila.

i mi jarco lo se cinmo ku ui nai i je ja'e bo mi cinmo lo ka surla

なみだ

Larmado

lo nu klaku

2011-09-10

本多ほんだ勝一かついちさんの引用いんよう

何度なんどでも引用いんようしたい。本多ほんだ勝一かついちさんの「母親ははおやころされるがわ論理ろんり」。
こうした CP の子供を長いあいだ育てる親の苦労は、健康児を育てる場合の、おそらく「何十倍」ではなく、「何百倍」くらいだろうと思われます。この種の苦労は、体験者以外にどうしても想像しにくいものでしょう。しかも、そのような苦労の末に幸い成人することができたとしても、生涯を重症身障者として生きなければならぬ子の未来を考えると、まことに救いがないように思われ、この福祉後進国日本ではことさら、それが身体的苦労以上に親への心理的重圧となって加わります。

(中略)

ともかく母は、思いなおして帰ってきました。思いなおすに至った経過はわかりませんが、このとき母が共に生きる決意をしたことは、家族みんなにとってまことに幸せでした。けれども、節子の側から考えてみると、これは父や私の考える程度の「よかった」次元のものではない。むろん妹はまだ何も知らぬ赤ん坊ですが、少なくとも当人は「死にたい」などと思ってはいません。母とともに心中させられるということは、要するに殺されることであります。いかに未来が悲観的であろうと、それは親が考えてのことであって、当人が考えてのことではない。とすれば、このとき母が思い直したことは、ほかならぬ母親自身にとってこそ、真に幸せな決断だったと考えられます。以後ずっとのちまで、母が節子のことを「仏さまだでなあ」と、冗談にまぎらわすようにして話していたのは、このあたりの感情を庶民的に表現していたのかもしれません。

(中略)

脳性マヒに限らず、どんな身体障害者にしろ、障害だけが理由で心の底から死にたい、自殺したいと考えることが、ありうるでしょうか。なるほど自殺した身障者は、死にたいから自殺したのでしょう。しかし、なぜ死にたいと考えるようになったかを検討すれば、おそらくほとんどは、障害自体によるのではなく、障害を原因とするさまざまな差別や貧困行政によって「自殺させられた」のであり、要するに殺されたに等しいことがわかります。みんな、生きたいのだ。どんなに不自由でも、健康な人が生きたいと考えるであろうと全く同様に、生きたい。いや、むしろ不自由だからこそ、そのことを積極的に意識しています。健康な人間は、重病にかかって初めて生きたいと思う例が多いようですが、身障者は障害そんな心境で生きているのだとも言えましょう。

(中略)

そのような CP 者自身の叫びを、最近タイプ印刷された二冊の本で読みました。いずれも「青い芝」神奈川県連合会の、横田弘氏による『炎群』と、横塚晃一氏による『 CP として生きる』です。そこには、たとえばこんな言葉が書かれています。
「なぜ彼女(子殺しの母)が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点とならなければならない。彼女も述べているとおり『この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ』と思ったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。

障害者の親兄弟は障害者と共にこの価値観を以って迫ってくる社会の圧力に立ち向わなければならない。にもかかわらずこの母親は抑圧者に加担し、刃を幼い我が子に向けたのである。我々とこの問題を話し合った福祉関係者の中にも又新聞社に寄せられた投書にも『可哀そうなお母さんを罰するべきではない。君達のやっていることはお母さんを罪に突き落すことだ。母親に同情しなくてもよいのか』等の意見があったが、これらは全くこの”殺意の起点”を忘れた感情論であり、我々障害者に対する偏見と差別意識の現われといわなければなるまい。これが差別意識だということはピンとこないかもしれないが、それはこの差別意識が現代社会において余りにも常識化しているからである。

あのソンミ事件の例を上げればはっきりしよう。ベトナムの民間人を数百人殺害しその責任を問われ、終身刑を言い渡されたカリー中尉に対して『かわいそうなカリーを救え』『カリーばかり責めるのはおかしい』と白人世論が沸騰した。それに押されてニクソンは大統領権限を以って事実上無罪に近い待遇を与えている。又、日本人農婦を殺し日本の裁判にかけられたジラード二等兵に対しても、子羊ジラードを救えと白人世論は盛り上った。白人にしてみればアジア人は異教徒であり蛮族であり、自分たちの作ってきた正義観、道徳観の論理などを当てはめるには当らない。ましてや自分達より劣った蛮族の裁判を我が白人が受けるのは何としても我慢がならないというのである」(『 CP として生きる』〔注〕から)

「『植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は、社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から<われわれを大事にしろ>などといわれては、たまったものではない』

これは、『週刊朝日』一九七二年一〇月二七日号「安楽死させられる側の声にならない声」という記事にある元国会議員で「日本安楽死協会」なる物を作ろうとしている太田典礼の言葉だ。私たち重度脳性マヒ者にとって絶対に許せない、又、絶対に許してはならないこの言葉こそ、実は脳性マヒ者(以下 CP 者と云う)を殺し、経済審議会が二月八日に答申した新経済五ヶ年計画のなかでうたっている重度心身障害者全員の隔離収容、そして胎児チェックを一つの柱とする優生保護法改正案を始めとするすべての障害者問題に対する基本的な姿勢であり、偽りのない感情である事を、私はまず一点押えて置かなければならない。

今迄、 CP 者(児)が殺される度に繰返されている施設不足のキャンペーン、或いは殺した側の親を救えという運動、その本質にある『無用の者は、社会から消えるべきだ』とする健全者社会の姿勢を変えない限り、つまり、障害者を肉体的、精神的に社会から抹殺しようとしているのは、決して国家に代表される権力機構だけではなく、障害者福祉を大声で云い続けている革新政党、『障害者』解放を権力闘争への一過程として組入れている新左翼の諸君を含めた、もっと云うならば、私たちを此世に送り出した直接の責任者である筈の親の心にゆらめく健全者の幼いほむらのなかに見据えない限り、障害者運動の出発はありえないのではないだろうか。今迄私たちが行なってきた、そして大多数の障害者が今でも行ないつつある、障害者を理解して貰おう、或いは一歩でも二歩でも健全者に近づこうとする運動が通用する程、現在の私たちを取巻く状況は甘くない事は確かなのだ」(『炎群』から)

右の太田典礼の論理は、全く別の例でいえば、現在全国で進行中の「開発」の論理と酷似しています。「社会の幸福、文明の進歩のために」新幹線や成田空港や発電所や工場建設予定地の住民が、機動隊によって蹂躙じゅうりんされる。これは侵略者が虐殺をするとき、合州国の白人が先住民(いわゆるアメリカ=インディアン)を、日本軍が中国人を、ナチ=ドイツがユダヤ人を、米軍がベトナム人を虐殺するとき、常に使ってきた論理であります。

弱者や少数者を消す論理。まさにこの論理こそが、それこそ「社会の幸福、文明の進歩のため」の、ほんとうの敵ではないでしょうか。

〔『潮』一九七四年一一月号〕
(本多勝一。「母親に殺される側の論理」。『殺される側の論理』。朝日文庫。朝日新聞社。1982年。10-16頁。)

30ねん、40年前ねんまえ文章ぶんしょう状況じょうきょうとしてわっていないものの一例いちれい。↓日米にちべい地位協定ちいきょうてい

在日米軍犯罪・事故 21万件 1952~2010年度/日本人1088人 犠牲に
http://mail.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-09-08/2011090801_01_1.html
- しんぶん赤旗

2011-09-05

2011-09-04

人工じんこう言語げんご啓発けいはつポスター


人工じんこう言語げんごまなぼう。

2011-09-02

ma te pilno lo gugykruca bangu

i di'e notci fi da noi canci lo vreji gau lo catni ku'o bu'u lo bangepu'o papri be me'e la lernus no'u la'o zoi lernu! zoi

i lu
ju'o cu'i da jarco lo ka lo gugykruca bangu cu jai mukti tu'a lo po'o nu panpi kei je ka tolfengu
i mi ba lo nu co'a cilre fi lo bangepu'o ze'e zgana ba'e lo dukti li'o

i mi zukte fi lo nu jarco tu'a lo cumki ka ckape fa lo bangepu'o
i za'a lo bangepu'o fi'o se dukti lo bangenugu cu jai frili fai lo nu slabu je se manci so'i prenu noi na ka'e simxu jimpe ki'u lo vrici no'u tu'a lo lijda je lo nunctu je lo kulnu tcaci
i ra'u ju'o cu'i lo bi'u nai prenu cu nitcu lo nu simxu tavla ci'u lo terdi
li'u

i di'e te spuda fi mi

i lu
pe'i lo nu simxu jimpe cu xauzma va'o lo ji'a nu na'e prane jimpe kei je nu na'e prane te jimpe kei lo nu na sai troci lo nu jimpe kei kei je nu smaji catra
i lo prenu poi catra cu nitcu lo nu jimpe fi lo prenu poi se catra
i je tu'a lo bangu ka'e krinu lo nu jimpe fi lo prenu poi se catra
li'u
to stuzi fa la'o zoi
http://eo.lernu.net/komunikado/forumo/temo.php?t=9894&p=1
zoi toi

i ei pe'i lo gubykruca bangu cu ve tavla fi lo te darlu be ki'u lo sidbo nu frica
i ei pe'i lo gugykruca bangu cu se pilno fi lo nu simxu tavla fi lo gugykruca nabmi je lo nu damba

Por kio oni havas internacian lingvon?

Jen mesaĝo de iu, kies konto foriĝis de la "teamo" en la la paĝaro lernu!:
Kio indikas, ke internacia lingvo instigas nur pacon kaj komprenemon inter homoj ?

(...)

Mia celo estas montri eblan danĝeron de esperanto, kiel internacia lingvkomunikilo.

Ŝajne, male al la anglon, esperanto povas disvastigi plej facile, tuŝi homojn, kiuj tute kulture ne povas kompreni unu la alian, pro diversaj kialoj (religioj, edukado, kutimoj, ktp...). Kaj ĉefe, ĉu ili vere bezonas interkomuniki laŭ mondskalo ?
 Jen mia respondo al tio:

Mi opinias, ke estas pli bone interkompreniĝi, eĉ kvankam oni ne tute komprenas kaj ne tute kompreniĝas, ol tute ne peni kompreni kaj silente murdi. Murdantoj bezonas kompreni pri murdatoj. Kaj lingvo havigas al ili okazon kompreni pri la murdatoj.
(http://eo.lernu.net/komunikado/forumo/temo.php?t=9894&p=1)

Mi opinias, ke estas tipe de internacia lingvo, ke la ideoj malsamas, kaj ke oni kontraŭas unu la alian. Mi opinias, ke oni havas internacian lingvon por interparoli ĝuste pri internaciaj problemoj kaj konfliktoj.

2011-09-01

なんのための国際こくさい

エスペラントの lernu! (「レルヌ」)掲示けいじばんの、管理かんりにんたちからアカウントを削除さくじょされてしまったかた最後さいごみ。→「国際こくさいがうながすのは平和へいわ寛容かんようさばかりだと、なにをもってしていえるのか。エスペラントをはじめてからいつも反対はんたいのものをる。(中略ちゅうりゃくわたし意図いとは、国際こくさいコミュニケーションの道具どうぐとしてのエスペラントの危険きけんせい指摘してきすること。エスペラントは、『英語えいご』とは反対はんたいに、宗教しゅうきょう教育きょういく慣習かんしゅうなどの理由りゆう文化ぶんかてきにおたがいをかりえないひとたちにもたやすくひろめられて、そのひとたちのこころとどくようだが。だいたい、そういうひとたちが世界せかい規模きぼ言葉ことばのやりとりをする必要ひつよう本当ほんとうにあるのか。」それにたいするわたしこたえです。
かりほういとわたしおもいます。すべからなくても、すべ理解りかいされなくても…。かろうとする努力どりょくまったくせずにだまってころすよりは。
ころひとたちは、ころされるひとたちのことを理解りかいする必要ひつようがあります。そしてその機会きかいをもたせるのが言語げんごです。
http://eo.lernu.net/komunikado/forumo/temo.php?t=9894

価値かちかん対立たいりつまれてこそ国際こくさいだとわたしおもいます。そして国際こくさい問題もんだいについてかたうためにこそあらそいについてかたうためにこそ国際こくさいはあるものだとおもっています。