2012-07-26

最近さいきんは、いわゆるソーシャルゲームにハマっています。

もともといからおそわったのがきっかけで、コンピューターゲームをするのはおよそ二十年にじゅうねんぶりということもあり、どんなものかてやろうというつもりだったのが、ミイラりがミイラになるように、わたし自身じしん夢中むちゅうになり、せなくなってしまった。文字もじどおり、時間じかんべる時間じかんもないくらいにいそがしくなってしまったときもある。

いつもだれかが「ボスがたよ!たすけて!」とたすけをもとめている。連携れんけいしてボスをたおしたときの連帯れんたいかんがたまらない。自分じぶんたすけをもとめて、たすけてもらったときのうれしさといったら。わたしは、無料むりょうあそぶという、いわゆる「課金かきん」をつらぬいているから、たすけをもとめるのは本当ほんとうににっちもさっちもいかない状況じょうきょうなので、ありがたさが余計よけいにしみる。

あさからばんまでずっとボスとたたかっている、「あんた、一日いちにちじゅうゲームしているのか」とつっこみたくなるひともいる。なか原発げんぱつさい稼働かどうだ、反対はんたいだ、とさわいでいるなかで、一日いちにちじゅうゲームをしているひとというのは、どんなひとなのからないけど、こういうひとわたしきです。

「バザー」あるいは「マーケット」とばれる、手持てもちのものあそ同士どうし交換こうかんするもある。相場そうばというのがあって、たとえば出品しゅっぴんする場合ばあい、たいてい のひと回復かいふくやく4以上いじょう交換こうかん条件じょうけんとしているときに、回復かいふくやく3交換こうかん条件じょうけんとすると、出品しゅっぴんした瞬間しゅんかんれる。それだけチェックをしているひとがいるわけですね。これはぎゃく立場たちばにしてもおなじじで、ほかひとによるおなじしな調しらべてから、まえのページにもどると、すでにわれてしまっているということが多々たたある。一分いっぷん一秒いちびょうきそ世界せかいなんだ。そんな市場しじょう世界せかい体験たいけんできる。

まあ、いままでのところ、たいていのゲームは、いち週間しゅうかんもすればあきてくる。そして、あたらしいゲームへと関心かんしんうつっていく。だから、キリがないわけですが。

社会しゃかい問題もんだい関心かんしんがないわけではない。

たとえば、総理そうり大臣だいじん野田のだ佳彦よしひこさんは、責任せきにんをもって原発げんぱつさい稼働かどうさせるとった。責任せきにんがとれないことに責任せきにんをとると野田のだ佳彦よしひこさんはアホかとおもう。

(しかしこれは誤解ごかいで、野田のだ佳彦よしひこさんがったのは、さい稼働かどうめるのが首相しゅしょう責任せきにんだという意味いみで、なにこったときに責任せきにんをもつという意味いみではないらしい。)

しかし、たとえば、「自分じぶん人生じんせいささげる」という表現ひょうげんはどうか。これもまた、野田のだ佳彦よしひこさんとおなじように、できないことをべていることではないだろうか。

かんがえて行動こうどうすることにおいて、行動こうどうするわたしかんがえるわたしとはおなじものではない。かんがえるわたしは、行動こうどうするとしんじるのであって、行動こうどうするのではない。人生じんせいとは行動こうどうすることであるから、きているわたしかんがえるわたしとはおなじものではない。だからこそ、ころされるということがありえる。

ころされることは、ぬことをえらぶことではない。わたしきようとするのに、なされるということだ。だから、わたしかんがえることは、わたしぬことではない。

だから、人生じんせいささげるという表現ひょうげん冗談じょうだんなんだ。人生じんせいささげることはかたであって、言葉ことばではない。

また、中学ちゅうがくせいがいじめで自殺じさつしたらしいことをけて、子供こどもにいじめはいけないとおしえようとする大人おとなおおすぎるが、これにもあきれる。いま日本にほん有権ゆうけんしゃは、犯罪はんざいしゃ推定すいていされるひと死刑しけいにしているが、これこそリンチのようなものではないか。いま日本にほん有権ゆうけんしゃは、かねちから税金ぜいきんおおらないで、貧乏びんぼうにんくるしいおもいをさせているが、これこそよわものいじめではないか。なによりも、年間ねんかん三万人さんまんにん以上いじょう自殺じさつしゃしている、こういう社会しゃかい構成こうせいしている大人おとなのおまえ子供こどもかって「いじめはいけない」などとうな、といたい。「おまえ」というか、「わたしたち」ですね。

わたしおもうに、子供こどもというのは、コロコロわるものだ。ある立場たちばである主張しゅちょうをしたかとおもえば、すぐにちが立場たちばちが主張しゅちょうをする。だから、子供こども倫理りんりくのは無意味むいみであるし、子供こども政治せいじ相容あいいれない。

かんがえて行動こうどうすることにおいて、重要じゅうようなのは行動こうどうすることで、行動こうどう言葉ことばではない。それなのに、「いじめはいけない」とかってかせようとする大人おとなおおすぎる。たりまえだが、たとえば「ね」とうことと実際じっさいころすことはちがう。しかしたとえば、死刑しけいにするべきだと署名しょめいすること、これは実際じっさいころそうとしていることだ。まっさきに非難ひなんされるべきは、このような倫理りんりのない大人おとな有権ゆうけんしゃ行動こうどうであって、子供こどもがふざけることまでを禁止きんししてはならない。

言葉ことばというのは冗談じょうだんだ。冗談じょうだん冗談じょうだんまなくなるのは、大人おとなつくっている社会しゃかい暴力ぼうりょく世界せかいだからであり、それは悲劇ひげきだ。(だから、暴力ぼうりょくをふるう可能かのうせいのある大人おとな絶対ぜったいてき言論げんろん自由じゆうはない。)

もちろん、子供こどもころがわになることはありえる。子供こども大人おとなになることはありえる。しかし子供こども大人おとなになるのは、なりたいからなるのだろうか?

子供こどもらしさが大人おとならしさになる変化へんかは「進歩しんぽ」とよくみなされる。人類じんるい狩猟しゅりょう採集さいしゅうから農耕のうこうへの変化へんかも「進歩しんぽ」とよくみなされる。しかし、狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞくって、農耕のうこう民族みんぞくえたのは、人類じんるい農耕のうこうえらんだからとえるだろうか?そうではなく、狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞく農耕のうこう民族みんぞくころしていったからだとわたしう。おなじように、子供こども大人おとなになるのは、大人おとな子供こどもころしている状況じょうきょうがあるとえないだろうか?すなわち、子供こどもきられないような状況じょうきょう大人おとなつくっている。

ちからよわ子供こども大人おとなおもいどおりに、ちからずくでうごかそうとする大人おとな、そうやって子供こども暴力ぼうりょく大人おとな世界せかいんでいる大人おとな、このような大人おとなたちこそが子供こどもころがわに(自殺じさつした自分じぶんころしているのだから、その意味いみでは、ころがわだ)めているのではないかとわたし推測すいそくする。

そもそも、なぜいじめるたちからはなれることができないのか。ちが人間にんげん関係かんけいつくればいいではないか。離散りさん集合しゅうごうかえせばいいではないか。これが簡単かんたんにできないのは、子供こどもをひとつの場所ばしょ学校がっこう)にめようとする、ばかげた義務ぎむ教育きょういく制度せいどがあるからだろう。

言葉ことば冗談じょうだんであることについて。

たとえば、強者きょうしゃ弱者じゃくしゃというのは相対そうたいてきなものであるが、どちらが強者きょうしゃでどちらが弱者じゃくしゃかというのは、見方みかたによってわるものでもある。ディオゲネスさんは、奴隷どれいとしてられるときに、なにができるのかとかれ、「ひと支配しはいすることだ」とこたえた。自分じぶん主人しゅじんには、「わたしうことにしたがえ」とった。たとえ奴隷どれいでも、たとえば、医者いしゃふねかじりなら、そのひとうことにしたがうものであるから、と。(ディオゲネス・ラエルティオスさん(上記じょうきのディオゲネスさんとは別人べつじん)の『哲学てつがくしゃ列伝れつでん』より。)