最近は、いわゆるソーシャルゲームにハマっています。
もともと
知り
合いから
教わったのがきっかけで、コンピューターゲームをするのはおよそ
二十年ぶりということもあり、どんなものか
見てやろうというつもりだったのが、ミイラ
捕りがミイラになるように、
私自身が
夢中になり、
抜け
出せなくなってしまった。
文字通り、
寝る
時間も
食べる
時間もないくらいに
忙しくなってしまったときもある。
いつも
誰かが「ボスが
出たよ!
助けて!」と
助けを
求めている。
連携してボスを
倒したときの
連帯感がたまらない。
自分が
助けを
求めて、
助けてもらったときの
嬉しさといったら。
私は、
無料で
遊ぶという、いわゆる「
無課金」をつらぬいているから、
助けを
求めるのは
本当ににっちもさっちもいかない
状況なので、ありがたさが
余計に
身にしみる。
朝から
晩までずっとボスとたたかっている、「あんた、
一日中ゲームしているのか」とつっこみたくなる
人もいる。
世の
中、
原発再稼働だ、
反対だ、と
騒いでいるなかで、
一日中ゲームをしている
人というのは、どんな
人なのか
知らないけど、こういう
人は
私は
好きです。
「バザー」あるいは「マーケット」と
呼ばれる、
手持ちの
物を
遊び
手同士で
交換する
場もある。
相場というのがあって、
例えば
出品する
場合、たいてい
の
人が
回復薬4
個以上を
交換条件としているときに、
回復薬3
個を
交換条件とすると、
出品した
瞬間に
売れる。それだけチェックをしている
人がいるわけですね。これは
逆の
立場にしても
同じで、
他の
人による
同じ
品を
調べてから、
前のページに
戻ると、すでに
買われてしまっているということが
多々ある。
一分一秒を
競う
世界なんだ。そんな
市場の
世界が
体験できる。
まあ、
今までのところ、たいていのゲームは、
一、
二週間もすればあきてくる。そして、
新しいゲームへと
関心が
移っていく。だから、キリがないわけですが。
社会問題に
関心がないわけではない。
たとえば、
総理大臣の
野田佳彦さんは、
責任をもって
原発を
再稼働させると
言った。
責任がとれないことに
責任をとると
言う
野田佳彦さんはアホかと
思う。
(しかしこれは
誤解で、
野田佳彦さんが
言ったのは、
再稼働を
決めるのが
首相の
責任だという
意味で、
何か
起こったときに
責任をもつという
意味ではないらしい。)
しかし、たとえば、「
自分の
人生を
捧げる」という
表現はどうか。これもまた、
野田佳彦さんと
同じように、できないことを
述べていることではないだろうか。
考えて
行動することにおいて、
行動する
私は
考える
私とは
同じものではない。
考える
私は、
行動すると
信じるのであって、
行動するのではない。
人生とは
行動することであるから、
生きている
私は
考える
私とは
同じものではない。だからこそ、
殺されるということがありえる。
殺されることは、
死ぬことを
選ぶことではない。
私は
生きようとするのに、
死なされるということだ。だから、
私が
考えることは、
私が
死ぬことではない。
だから、
人生を
捧げるという
表現は
冗談なんだ。
人生を
捧げることは
生き
方であって、
言葉ではない。
また、
中学生がいじめで
自殺したらしいことを
受けて、
子供にいじめはいけないと
教えようとする
大人が
多すぎるが、これにもあきれる。
今の
日本の
有権者は、
犯罪者と
推定される
人を
死刑にしているが、これこそリンチのようなものではないか。
今の
日本の
有権者は、
金持ちから
税金を
多く
取らないで、
貧乏人に
苦しい
思いをさせているが、これこそ
弱い
者いじめではないか。
何よりも、
年間三万人以上の
自殺者を
出している、こういう
社会を
構成している
大人のお
前が
子供に
向かって「いじめはいけない」などと
言うな、と
言いたい。「お
前」というか、「
私たち」ですね。
私が
思うに、
子供というのは、コロコロ
気が
変わるものだ。ある
立場である
主張をしたかと
思えば、すぐに
違う
立場で
違う
主張をする。だから、
子供に
倫理を
説くのは
無意味であるし、
子供と
政治は
相容れない。
考えて
行動することにおいて、
重要なのは
行動することで、
行動は
言葉ではない。それなのに、「いじめはいけない」とか
言って
聞かせようとする
大人が
多すぎる。
当たり
前だが、たとえば「
死ね」と
言うことと
実際に
殺すことは
違う。しかしたとえば、
死刑にするべきだと
署名すること、これは
実際に
殺そうとしていることだ。まっさきに
非難されるべきは、このような
倫理のない
大人の
有権者の
行動であって、
子供がふざけることまでを
禁止してはならない。
言葉というのは
冗談だ。
冗談が
冗談で
済まなくなるのは、
大人の
作っている
社会が
暴力の
世界だからであり、それは
悲劇だ。(だから、
暴力をふるう
可能性のある
大人に
絶対的な
言論の
自由はない。)
もちろん、
子供が
殺す
側になることはありえる。
子供が
大人になることはありえる。しかし
子供が
大人になるのは、なりたいからなるのだろうか?
子供らしさが
大人らしさになる
変化は「
進歩」とよくみなされる。
人類の
狩猟採集から
農耕への
変化も「
進歩」とよくみなされる。しかし、
狩猟採集民族が
減って、
農耕民族が
増えたのは、
人類が
農耕を
選んだからと
言えるだろうか?そうではなく、
狩猟採集民族を
農耕民族が
殺していったからだと
私は
思う。
同じように、
子供が
大人になるのは、
大人が
子供を
殺している
状況があると
言えないだろうか?すなわち、
子供が
生きられないような
状況を
大人が
作っている。
力の
弱い
子供を
大人の
思いどおりに、
力ずくで
動かそうとする
大人、そうやって
子供を
暴力の
大人の
世界に
組み
込んでいる
大人、このような
大人たちこそが
子供を
殺す
側に(
自殺した
子も
自分を
殺しているのだから、その
意味では、
殺す
側だ)
追い
詰めているのではないかと
私は
推測する。
そもそも、なぜいじめる
子たちから
離れることができないのか。
違う
人間関係を
作ればいいではないか。
離散集合を
繰り
返せばいいではないか。これが
簡単にできないのは、
子供をひとつの
場所(
学校)に
閉じ
込めようとする、ばかげた
義務教育制度があるからだろう。
言葉が
冗談であることについて。
たとえば、
強者と
弱者というのは
相対的なものであるが、どちらが
強者でどちらが
弱者かというのは、
見方によって
変わるものでもある。ディオゲネスさんは、
奴隷として
売られるときに、
何ができるのかと
聞かれ、「
人を
支配することだ」と
答えた。
自分の
主人には、「
私の
言うことに
従え」と
言った。たとえ
奴隷でも、たとえば、
医者や
船の
舵取りなら、その
人の
言うことに
従うものであるから、と。(ディオゲネス・ラエルティオスさん(
上記のディオゲネスさんとは
別人)の『
哲学者列伝』より。)
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