2012-02-29

つづき、橋下はしもととおるさんの『まっとう勝負!』について。

橋下はしもととおるさんの思考しこうかぎとなる言葉ことばは「利益りえき」と「復讐ふくしゅう」だとおもいます。そして行動こうどう手段しゅだんとして「ルールのすきく」があります。

利益りえき」は見返みかえりとされていて、これと「復讐ふくしゅう」は、「~されたから、お返しに~する」とあらわせます。

これは理由りゆうべているので、一見いっけん論理ろんりてき主張しゅちょうのようにみえますが、たんに、なにかをしてあげる対象たいしょう限定げんていしているだけともみなせます。

「おかね支払しはらったものに利益りえきあたえる」というかんがかた対立たいりつするのが「みんなと共有きょうゆうする」というかんがかたです。
加害かがいしゃ復讐ふくしゅうをする」というかんがかた対立たいりつするのが「みんなに人権じんけんがある」というかんがかたです。

「みんなと共有きょうゆうする」「みんなに人権じんけんがある」というかんがかたは、理由りゆうづけによって対象たいしょう限定げんていしません。

「~されたから、おかえしに~する」というかんがかただけをすると、ひといのちうばうことにいきつくとわたしおもうし、それはいま日本にほんでもある程度ていど実現じつげんされています。

また橋下はしもととおるさんの思考しこうにもすでに言葉ことばとして表現ひょうげんされています。

どこで歯止はどめをかけるかだとおもいます。

どちらの主張もそのとおり!評価する基準時が双方異なるのだから、主張が異なるのは当たり前だ。当時の状況下では、「開戦やむなし」と判断せざるを得なかったでしょう。だけど、結果として多くの方々が不本意に亡くなられたことを是とするわけにもいかない。評価する基準をどこにおくかは、価値感の違いなので論争しても意味がない。私はこちらの立場に立つ、といえばそれで終わり。論理的に相手を論破することなどできない問題なんだ。
(145-46ページ)
「結果として多くの方々が不本意に亡くなられた」だから「是とするわけにもいかない」というのは立派りっぱ論理ろんりです。

ここで「是とするわけにもいかない」といながら、つぎ瞬間しゅんかんにはそれをひるがえ橋下はしもととおるさんの思考しこう論理ろんりてきです。


国家は、どんなにだらしない国民であっても保護する義務があるはずだ。当然でしょ、政府は国民の出したお金で成り立っているんだから。
だからって、なんでも無条件に保護できるわけではない。そこで明確な線引きが必要になってくるんだけど、これは「自己責任論」じゃなくて、被害に遭っている国民を救出する利益と救出することによってその他の国民が受ける不利益の比較で考えるべきなんだ。
出会い系サイトに足を踏み入れて犯罪に巻き込まれた少女を警察が助けるのは、救助することによって他の国民が不利益になることはないからだ。そして救出することは、犯人逮捕にもつながり同様の犯罪を抑えることになって、そのまま国民の利益にもなる。それならば、かかった警察の費用は税金によるものだけど、被害者に請求すべきでない、といった具合にね。
冬山で遭難した人の場合は、救出することによって他の国民が不利益を被ることがないから救出すべきなんだ。ただし、その人を助けても他の国民の利益になることはないから、国は捜索費用を請求すべき、となる。
(159-60ページ)

だいたい、「更生」って”誰のための””なんのための”ものなんだ?
非常に哲学的だけど、一般的には「罪を犯した少年のためのもの」と考えられている。だけど更生させるためには金がかかる。なんで、罪を犯した少年のために莫大ばくだいな税金をつぎこまなきゃならないんだよ。
「更生」の” 対象”は、確かに罪を犯した少年だけど、それは”その少年のため”のものじゃない。少年を更生させるのは、「社会が利益を受けるため」のものなんだ。
この視点を見失っちゃうと、なんでもかんでも「少年の更生!」とバカのひとつ覚えのように叫んでしまう。
いいかい!僕らは罪を犯した少年に立派な青年に立ち直ってもらい、”社会のため”にがんばってもらいたいからこそ莫大な税金をつぎ込んでいるんだよ。あくまでも”社会のため”に更生させるんだ。
(中略)
僕の基準では、被害者に取り返しのつかないような甚大な被害を与えた場合、とくに殺人と強姦に関しては、もう更生させなくてもいい。そんな少年を「更生」させて「社会の利益」にするよりも、被害者の復讐ふくしゅう感情を果たさせてあげるほうが、よっぽど社会の利益になる。
もともと、被害者は「復讐権」を持つ。「目には目を、歯には歯を」というヤツね。当たり前でしょ。だけど、これを好き勝手に認めると社会秩序が乱れてしまう。だから私的復讐権を被害者から取り上げるかわりに、国が被害者の復讐を果たす。昨今のひどい事件に対する温情的な判決を見ると、裁判官には「被害者の復讐権を代行するんだ」という使命感に乏しいと感じる。1999年に山口県光市で起きた(中略)事件の判決なんてムチャクチャだったよ。(中略)宅に押し入り、妻を暴行の上、殺害。11か月の娘まで床に叩きつけて殺害した当時18歳の少年に下された判決は、一、二審とも無期懲役。2006年、その無期懲役の判決を最高裁が広島地裁に差し戻す判決を下したことが、大きく取りあげられた。無期懲役っていっても少年の場合は7年で仮出獄が認められうる。更生の可能性があるとかないとか議論されてるけど、そもそもなんであの少年を生かし、更生を期待しなきゃならないんだよ!
このまま被害者をなおざりにしたような判決が続けば、しまいには被害者は自分で復讐することになる。社会は大混乱だ。社会を安定させるために、更生よりも厳罰を与えること、つまり死刑判決が必要な事件もあるんだ。厳罰を与えても、犯罪は減らないかもしれない。だけど、被害者の復讐感情は果たされる。これが重要なんだよ。
”酒鬼薔薇”にしたって、被害者の復讐感情を考えれば、少なくとも被害者には、すべての情報を伝えるべきなんだ。そして、少年の更生よりも被害者の復讐権を重視すべきだ。なんでも少年の更生のためといって、加害少年の情報を封印したがる奴よ!殺人・強姦凶悪事件の元加害少年を、てめえの知らないうちに、そっと隣に住まわしてやろうか!
(76-79ページ)

どれだけ非情な事件を起こした少年であっても、生い立ちを探り、なぜそのような非行に走ったのかを検証するでしょ。
それは少年に同情しているからではない。少年だけを単純に罰しても意味はなく、なぜ非行に走ったのかを解明して対処しなければ真の解決にはならないからだ。
(151ページ)
ここでは橋下はしもととおるさんは少年しょうねんひととしてて、いかにふせぐかをかんがえています。

僕が通っていた高校では、プールを休んだら必ず別の日に、その日の授業で泳いだ距離と同じだけ泳がなければならなかった。1回の授業で大体700メートルくらい。風邪で休もうが、ばあちゃんの葬式で休もうが、とにかく休んだら別の日の昼休みや放課後に泳がされる。僕は、所属してたラグビー部の試合のあった翌日は勝手に自主休校としていたし、そのほかちょくちょく休んでいたので、泳がなければならない距離があっというまに1万メートルを超えちゃったわけ。
これを毎日、消化するのは大変でね。2年生のときには、11月になっても泳いでたよ。水は緑色に濁って、そういや死んだ鳩まで浮いてたな。距離をごまかすのも無理。キッチリと体育教官が教官室からカウントしてやがんの。
これにりて、3年生のときはほとんど休むことはなかったけど、罰が嫌だから、ちゃんとやろうと決意しただけ。改心したわけでもなんでもない。
(88ページ)
「改心したわけでもなんでもない」のなら、しん解決かいけつになっていないとおもいませんか?


でもね、一般市民が必要としているのはそんな弁護士だけじゃない。熱い心と、枠を飛び越える非常識な思考回路、常識的に考えればそれはムチャだよ、ということをなんとか押し込む弁護士が重要なわけ。そんな弁護士になるような人間が一番不得意なのは、この適性試験みたいな問題だよ。
(17ページ)

求められるのは、自分の意見を押し通す力。自分の意見・結論に合わせて、前提事実を作っていく力だ。与えられた前提事実に縛られる公務員的発想とは、ここが根本的に異なる。だから、常識的にはこういう結論になるという考えを打ち破ることができるし、自分の結論に合わせて常識を変えちゃうことだってできる。詭弁きべんになることも多いけどね。
(22-23ページ)

僕が弁護士を志した動機は、僕自身がいわれのない制限におびえたくなかったからだ。世のルール、すなわち法律を知れば知るほど自分の動ける領域が広がるだろうとね。それと同じで憲法をしっかりと学べば、どのような表現が差し止めを食らうかは、一目瞭然。どんな差し止めが国民にとって危機的なものなのかもよくわかる。
(120ページ)

現在の世界は激烈な競争社会。なんとなくの暗黙のルールに縛られて自己規制していたらアッという間に取り残される。明確なルールのみが行動の基準であって、明確なルールによる規制がない限りは何をやっても構わないんだ。
「こんな卑怯なことは許せない」みたいなことをいいたがる人は多いけれど、卑怯かどうかは個人の道徳や倫理であって、他人との関係は明確なルールのみで規律すべきなんだよ。
これだけ価値観が多様化した社会で道徳や倫理を持ち出したって、おのおのが持っている道徳観、倫理観が違うんだから意味がない。それに道徳や倫理を基礎とする暗黙のルールというものは危険だよ。だって、権力者の都合でルールが勝手に変えられたりするんだから。
明確なルールだけを行動基準とすると、ルールの隙を突いてくる奴が出てくる。そしたらルールを改正する。それでもまた抜け道を探す奴が出て……。これはいたちごっこかもしれないけれど、この繰り返しで社会は発展していく。
(中略)
国際社会でもそうだよ。中国にしてもロシアにしても北朝鮮にしても、日本とは価値観がまったく違う。明確なルールとして一応認められているのは国際法のみ。そしたら、国際法というものだけを考えてふるまわないといけない。そして、国際法で決められていないことは何をやってもいいんだ!という意気込みでないと。
(中略)
もちろん、こんなスタンスで友だちづきあいをやったら駄目だよ。あっという間にひとりぼっちになってしまう。友だち同士でルールの隙を突く必要が出てくる競争の場面は、皆で風俗店に行ったときの受付のときくらいでしょ。
(209-11ページ)
「こんなスタンスで友だちづきあいをやったら駄目」ということは、友好ゆうこう関係かんけいをきずこうとするときには、橋下はしもととおるさんのうことをしては駄目だめだということですね。


ちなみに、まえ記事きじのコメントで実名じつめい報道ほうどうひかえることについてわたし賛同さんどうするといましたが、橋下はしもととおるさんが同時どうじっている、そのかわりに逮捕たいほ積極せっきょくてきおこなえるという主張しゅちょう危険きけんです。

治安維持の観点だけでいえば、捜査機関は「逮捕」を積極的にするのが理想的だ。”逮捕の事実”が匿名報道になれば、捜査機関は心おきなく逮捕できる。そして容疑がなければ釈放。逮捕された側も約20日間の勾留こうりゅうはきついけど、実名報道がなければまた社会復帰できる。
(135ページ)
冤罪えんざいまれやすいとおもいます。

自分じぶんでおっしゃっているように、「治安維持の観点だけ」、管理かんりするがわ観点かんてんだけによった主張しゅちょうです。


以下いかはおまけです。

「表現の自由」は、民主主義を守るもっとも重要な権利ともいわれてる。だけど、そもそも民主主義はなんのためにあるのか?
答えはこれもまた、「個人の尊厳」を達成するため、な んだよ。
国民が自らの意思で国政のあり方を決定していく。それによって個人の尊厳が達成される。その民主主義を実現するためには、国民が知っておくべき情報がある。そのために「表現の自由」が重要であると考えられてるんだ。
(122-23ページ)

メディアの公共性・公益性で、もっとも重要なのは、公権力に対する監視機能。これに国民は一番信頼を寄せているけど、メディアはいつも弱者ばかりにたかって、強者には切り込まないのが現実だよね。
(113-14ページ)

2012-02-20

橋下はしもととおるさんの『まっとう勝負!』(2006年にせんろくねん小学館しょうがくかん)から引用いんよう
「日の丸」「君が代」が国旗や国歌にふさわしいかどうかは大人になってから考えればいいんだ!ガキにとって卒業式は重要な式典であって、「日の丸」を掲げて「君が代」を歌うことが教育カリキュラムのひとつ。因数分解に二次方程式、サイン・コサイン・タンジェント……、と、生きていくうえでほとんど役に立たないことをずっとやらされてきたでしょ。それと同じ。とにかく歌ってりゃいいんだ。思想や良心だなんて、クソガキが考える必要はゼロ。何が歌わない自由だ!それなら「授業を聞かない」自由、「学校を休む」自由、「チ×ポを出す」自由まであるかっていうの。
(89ページ)

やっぱり被害者が出てからじゃないと何もできないのか?
それは違う!国が事前に危険な奴を隔離できないなら、親が責任を持って危険な我が子を社会から隔離すればいいんだ。他人様の子どもの命を奪うほどの危険性がある奴に対しては、そいつの親が責任を持って、事前に世のなかから抹殺せよ!
苦渋の決断で我が子を殺した親に対しては、世のなかは拍手を送ってもいいだろ。国に代わって、世のなかに代わって、異常・危険分子を排除したんだからね。
(中略)
同情すべきは、我が子が他人様の命を奪う危険性があると気づいたときに、それを見かねて我が子を殺害した場合のみ――。社会から隔離すべき危険な鬼畜野郎は、国の代わりに親が抹殺できると。親の側は子殺しの覚悟を決めやすくなるし、鬼畜野郎の手にかかる被害者も減るだろう。
「親に、子どもの命を処分してもいい権利を与えよ」というと、「親の虐待を助長することに繋がる」と反論する人が出てくるだろうね。だけど、親に究極の権利を与えると、かえって虐待も防ぎやすくなるんだよ。虐待を防ぐには、親を指導したって無理。我が子を虐待するような親に対して、口でいって聞くはずがないからね。社会が親を監視していかなくちゃいけないんだ。親に究極の権利を与えるかわりに大きな責任を負わせるんだ。
(中略)
親に微々びびたる権利しか与えないからこんな結論になっちまうんだ。親に子どもの命を処分できる”究極の権利”を与えれば、親がその権利を適切に行使しているのか、社会が、警察が、つねに必死になって監視する必要が出てくる。虐待の疑いがあれば、警察はその家庭に踏み込んで、親が子どもの命を”不条理に”処分することを阻止しなくちゃいけない。究極の「権利」を与える代わりに、いつでも警察に踏み込まれる「責任」を負わせる。これでバランスが取れるわけ。
(95-97ページ)

「戦争がなぜ悪いのか」という問いに対して、根本を考えると、答えはただひとつ。「戦争に賛成していない者が、意に反して命を落としてしまう」という一点に尽きると思う。
自分の意思で戦いたい者同士が戦うことはなんの問題もないでしょ。だけど多くは、なんの罪もない子どもや、自分だけは助かろうとしている狡猾こうかつな指揮官の部下たちが死んでいく。そして、いいだしっぺの奴や、「戦場に行け」と人に命令するだけの奴ばっかりが生き残るんだ。
これまでの歴史を見たってそうじゃない。戦争なんてしょせん、トップの奴が生き残るためのものなんだよ。
(中略)
だいたいね、”正義とは何か”なんていえる奴はいない。その人の価値観によって変わってくるからね。欧米の価値観とアラブの価値観は違うんだから、正義が相互に異なるのは当然で、アラブの常識は欧米の非常識、欧米の常識はアラブの非常識なんてことも多々ある。弁護士の常識は世間の非常識だからね。
正義の中身がはっきりしないとなると、世界にとって損か得かの判断しかできなくなるわけで、そうするとキチンとした手続きを踏まえたうえでの多数決で決定するしかないでしょ。これを「手続き的正義」というんだ。
このような手続き的正義を果たす役目が、国連決議なんだ。国連決議の中味が、本当に正義なのかどうかは考えない。ただ、国連でキチンとした手続きを踏まえたうえで、多数決によって決定されたということだけを重視する。
(146-49ページ〕

欧米、とくにイギリスはアラブに対して無茶苦茶なことをしてきた。決定的なのは、第一次世界大戦中の、フサイン=マクマホン協定(1915年)とバルフォア宣言(1917年)。アラブを味方につけるために、前者の協定でアラブ国家の樹立を承認する。と同時に金融面で強い力を持っていたユダヤ人からの支持を得るため、後者の宣言で、同じ地にイスラエルの樹立も承認した。
このときのイギリスの二枚舌は大阪ミナミの飲み屋の姉ちゃん級だ。ヤラせる気もないのに、それらしいことをいって金をふんだくっていくっていうね。
バルフォア宣言をもとにして戦後パレスチナの人はいきなり国を追い出されたんだよ。皆さんなら納得できる!?
パレスチナの攻撃をテロ行為だと非難しているユダヤ人だって、1939年ごろ国家建設を目指してイギリスなどに対して闘争。これは「テロ行為だ」といわれたりしていた。でもその指導者のひとりであるベギン氏は、後にイスラエル首相にまでなっているんだ。
アフガニスタンだって19世紀にはイギリスとロシアに、20世紀には冷戦下のアメリカとソ連の覇権争いでき回されてきた。湾岸戦争の原因となったイラクのクウェート侵攻にしたって、もともとクウェートはオスマン・トルコ帝国の一部だったんだろ。それをイギリスが自国の利益のためだけに無理矢理独立国家にしたんじゃないか。イラクを軍事国家にしたのもそもそもアメリカだよ。イラン革命に対抗するために、イラン・イラク戦争のときにはガンガン武器援助とかしてたじゃないか。
歴史を検証すれば、アラブやイスラムが米英に恨みつらみを抱くのは無理もないことがわかる。米英に比べたらさっきの闇金業者なんて天使のようなもんだ。こうした歴史的検証の話がなぜ出てこないのか、不思議でならないよ。日本は太平洋戦争の責任をいまだにアジア各国からことあるごとに追求されて、いつも恐縮している。じゃあ米英はアラブやイスラムに対して恐縮しているのか?はなからアラブやイスラム、はたまたアジアを馬鹿にしているんじゃないのか?
こうしてみると、アラブやイスラムの米英に対する敵意にも歴史的にそれなりの理由があることがわかる。もちろん、世界秩序を破壊するテロを壊滅するという現在の米英の行動にも理由がある。そして、自分たちの行動の理由を非論理的にあらわしたものが「正義」だよ。ぐだぐだと理由を述べるのが面倒だから、「自分の行動は正義にかなっているんだ!」「相手の行動は正義に反する!」といっちゃうわけ。
正義なんて言葉を出してきたところでなんの解決にもならない。お互いに自分なりの正義があるんだから。いま、日本は米英の正義に乗っかってるだけだ。
そうなると、先に述べたとおり、「正義とは何か」という議論じゃなくて、現在の世界にとって何が損か得かの議論しかできないし、それ以上の議論をすべきではないということになる。そして、世界にとって損か得かの判断は、手続きに従った多数決で行なうしかない、というわけだ。
現在、世界の損得を多数決で決定する機関は国連しかない。国連の判断が素晴らしく、正しいものだからじゃなくて、単に多数決をする機関としてゆだねざるを得ないというだけ。国連を過大視しているわけじゃない。
(中略)
人の命を奪うのに正義なんて持ち出すな!正義っていう言葉は自分は神だと思い上がってる奴しか使わない。見てよ、マスコミもすぐに正義を持ち出すし、弁護士法の第1条にも「社会的正義の実現を使命とする」って書いてあるじゃない!
(152-55ページ)

橋下はしもととおるさんは、
僕は、学者や思想家と称する人たちのように抽象論で物事を考えません。
(254ページ)
っていますが、しかし正義せいぎについての橋下はしもととおるさんのうんぬんは抽象ちゅうしょうろんそのものです。
アメリカやイギリスのやりかたについてここまで理解りかいしておきながら、なぜ正義せいぎ相手あいてぶんとしてみとめるのか。
正義せいぎ抽象ちゅうしょうてき世界せかいにあるものとみて、自分じぶんはそこにんでいないからです。
アメリカやイギリスのやっていることは正義せいぎではないでしょう。
かれらのっているのはかぎカッコつきの「正義せいぎ」でしょう。
具体ぐたいてき世界せかいるべきです。
「戦争がなぜ悪いのか」「戦争なんてしょせん、トップの奴が生き残るためのものなんだよ。」と橋下はしもととおるさんはっています。
わたしも、ひといのち対等たいとうとみなされていないことは「悪い」ことだとおもう。
ぎゃくえば、ひといのち対等たいとうとみなされることが正義せいぎです。
しかし正義せいぎという言葉ことば抽象ちゅうしょうてき使つかうと、言葉ことば意味いみがなくなってしまいます。

橋下はしもととおるさんの子供こどもについての主張しゅちょうについて。
鬼畜きちく野郎やろうおや抹殺まっさつすればいいって?
鬼畜きちく野郎やろうというのはひところすから「鬼畜きちく野郎やろう」というのですね。
それなら、さき大戦たいせんでみられたように、日本にほん大部分だいぶぶんひとたちは鬼畜きちく野郎やろうですね。
それとも、命令めいれいしたがってひところひとたちは鬼畜きちく野郎やろうとはばれないの?
軍隊ぐんたいひところすことに熱狂ねっきょうしていたひとたちは、実際じっさいをかけてころしてはいないから、鬼畜きちく野郎やろうではないの?

「『授業を聞かない』自由」、「『学校を休む』自由」、「『チ×ポを出す』自由」があるのかうんぬんについては、橋下はしもととおるさんのみならず、そういうことをひとはよくいます。
「『授業を聞かない』自由」、「『学校を休む』自由」はわたしはあるとおもう。
あるべきだとおもう。
橋下はしもととおるさんは自分じぶんだって、
いっとくけどね、僕とか『行列のできる法律相談所』の丸山和也弁護士は、ロースクールの適性試験を受けても悪い成績ってわけじゃないよ。そもそも3分で席を立って飲みに行っちゃうから、成績自体がないんだよ。
(17ページ)
と(冗談じょうだんにしても)っているじゃないか。
大人おとなになった途端とたんにいいぶるようなまねはやめてほしい。

「思想や良心だなんて、クソガキが考える必要はゼロ」といますが、そのけの教育きょういくが「思想や良心」をもつ大人おとなをうみだすというのは、矛盾むじゅんです。

「『チ×ポを出す』自由」については、これは、なに規制きせいがなかったら、橋下はしもととおるさんはこういうことをしたいということでしょうか。
わたし橋下はしもととおるさんのチ×ポをたいとはおもわないので、橋下はしもととおるさんがそれをまえせることにはわたし反対はんたいです。
aniepa u umo aleluniahale ihikeda e uniako apiatulometunputunpupe e uka uyu ama onie ehulu epa uyutie u uka aleniata u uka anioniapiape oniansonieso
aya uyu
esike
aya ama ihokawasunpe a ama eniatema ihikeda

aya antanka u umo antanihiahanu u ematatie iya
aya atahu ose a apiasolotume anpuniataniantanka u eniomatu umo antanihiahanu
aya anka epiosilu opa
aya anka u epa inialenianta
aya apiahomelo u umu anka a antisa u eniomatu antanka uka antanihusu e anta okatie e antanihiahanu amakusnianta
aya antanihiusa eniantanka uma antanihiahanu uniatahu apiatulolome a antisa eniupento atahu apiamelo
aya eyu antanka ematatie iya

aya antanisanenupa ekutie uka antanka ose
aya alo eniamiko antankanihiusa e epioniapasu omo
aya eyu antanihiusa entantanka umo anta okatie
aya antanihiusa anta a eniantanka
aya aniehanianiula u umo antanihiusa e ahikesaniatu u umo anta okatie eyo
aniunso
aya antanihiusa enantanka umo antanihinunanu unso aniulaniekaseniame
aya eyu alo esesute iya
aya antisa otutie
aya antanihiusa eniantanka umo antanihiahanu unso aniopieniantanka uka apiape apiameme

aya antanisanenupa eniuka alo
aya atemaniantanka u uka antankanialeniata oniantanihiusa umo antanisanenupa a antankanialeniata eniuhe alo utu antanka umo antanihiahanu e antanihinunanu
aya antanisanenupa enieku apiasunsonkonmo uso antanihiusa

aya anke u eme iyu antanikapa etio antanitanehiu eniantanka a afe epa
aya eyu o eniolate aniepa a anke u eme iyu anieniantanka
aya antanihiusa eniantanka oto anta okatie
aya amate eniamiko antanihiusa a amate eniantanka
aya amate u eso epensi antisa
aya antanihiusa etako iya ulalu anieniemotie uka ehuniemu ansoniopielisuniantanka oniatoma
aya anta ema ansoniopielisuniantanka oniatoma a alo epa ema iya uso anta okatie a antisa oke iya
aya  ahe ematatie oniapiame eniantanka a antisa ahate

aya ansoniopielisuniantanka eniuso eniomatu ata etio ekase ata
aya iwatie ata ehe onka a alo u eniomatu
aya anatanka u emata aliniata
aya iwa antanka u ematatie iyu amate entente
aya iwatie ata ehu a o epenso iya
aya e o epenso ata opieniomatu a antisa u eso
aya ahe eke iya ehu a o epa iya
aya e o epa asapo a onse
aya iwatie ata ehe onka a alo u eniomatu
aya ahe eke iya asapotie a o epa antisa
aya e ahe ehu anke uso a o epenso a antisa u eso

aya antanka u emata ata ahulu iya
aya alo emata a amate ehu aniopiepa uka amakusu
aya alo emata a amate ematie atanianhoniamakusu
aya antisa u eminle a aliata isinu unmo ihasimototoru eponiekase
aya ihasimototoru anso uka eha ansonieso ikimigayokilitu ula ame isinu a epa iya upento aniesusa
aya ato ekanto iya ikimigayo etio elieleha iya a ata ehu unso etakotie antanka
aya ahe epenso iya antisa e ehu anioketie a ekasate etakotie iya awa antanka
aya e ata eponiekase awa
aya ihasimototoru anso uka anioketie a alo u ekasate uso ape

aya antanisanenupa anta uka amakusuniantanianho oniakipe
aya iwatie aniesusa esanse anho
aya eyu iyu ahe esusa iya eya anli epo iya u esanse
aya ahe esusa anioke awa a eyo iya aniesusa
aya ahe eme ata oketie awa u esusa iya a eyo aniesusa
aya ahe esusa iya a ahe anso uka esusa oketie awa a oka
aya amate u eso esusa ata e aliata a oke ulalu antime etie antitu iyu alo oke awa iya
aya ansoniesusa o esusa upento aniesusa

aya aniematatie
uyutie

aya ihasimototolu eniasapo ulalu aniepenso uho ansoniekoto u uso ihosaka asito uka ato oka
di'e selsku mi bu'u lo ikedan rentcana dinju de'i li renoparepi'erepi'eso bu'u la'e lu au mi ji'a cusku li'u lu'u pe la ikedan ke so moi flalu bende

ni'o lu
coi ro do mi'e la okaun junpen noi xabju la ueikedan

ni'o lo gugde'afu nunjamna cu mulno ca ca'o na
i ca lo purlamna'a lo na'e sonci poi se catra cu cinorepa mei cu'u
i ri ca'o zenba
i lo namcu cu te sitna lo gugbe'e
i repano ra se catra ri'a tu'a lo gugde'usu joi ke drata gugde ke'e jenmi joi ke gugde'afu jecta
i lo temci be lo nu lo gugde'usu cu gunta lo gugde'afu cu nanca li panoji'ini'u
i je lo nunjamna cu mulno ca ca'o na
i la'e di'u cabna tcini

ni'o lo gugdejupu cu cirko fi lo pu nunjamna
i ba bo binxo lo jampe'o be lo gugde'usu gije binxo lo panpi za'adai
i ku'i lo gugde'usu cu jai ranji fai lo nu gunta lo drata gugde
i lo gugde'usu cu gugde gije gunta
i za'a lo gugde'usu xacygundi je lo ctile be tu'i lo drata gugde cu jai krinu
i lo gugde'usu se cu'u lo du'u lo sormemspoxa'i cu zvati lo gugde'ike cu gunta ri
i ku'i lo sormemspoxa'i cu na zvati
i je ja'o de'u se maljifsku
i fe lo gugde'afu lo gugde'usu cu gunta ki'u lo ti'e nu venfu fi lo niuiok nungunta be de'i li renonopapi'esopi'epapa

ni'o na ku lo gugdejupu cu jai nalra'a
i to'o lo gugde'usu jemtcana be tu'i lo gugdejupu te zu'e lo nu gugde'ike nunjamna ja lo gugde'afu nunjamna cu muvdu fa lo gugde'usu jenmi
i lo gugdejupu cu pilno fi tu'a lo gugde'usu jemtcana ku bi'unai fe lo jdini banli noi rupnu li zenono ki'o meg

ni'o cafne se cusku fa lo du'u ma kau fasnu mu'ei lo du'u lo gugdekupu ja lo gugdecunu cu gunta zo'i
i ku'i pu lo nu xanka lo si'o se gunta mu'ei kei y
i ca'a gunta lo drata gugde fa lo gugde'usu
i mi'o poi jampe'o lo gugde'usu cu gunta
i ei e'u di'e se pensi
i lo [to'i selpau ke toi] ratnenxa'i cipra tolcurmi selnu'e cu se zanru lo gugde'usu na
i lo nu lo gugde poi ponse lo ratnenxa'i cu cusku lo du'u ei na ku lo drata cu ponse ri cu tugmu'i na
i ie pei lo nu pa mai sisti lo nu gunta cu jicmu

ni'o lo xarci cu se pilno te zu'e lo nu catra se ju xrani lo prenu
i lo nunji'i be lo ba'o se catra ka'e nai se jinga za'u re'u
i lo nunjamna cu se rinka tu'a lo selgu'e
i ja'o lo nunjamna cu se fanta ka'e ku mu'ei lo du'u lo nu no'a cu se djica
i e'u nai pensi lo si'o lo nunjamna cu sarcu kei gi'e zgana se zu'e no drata
i e'u gau ku manri fa lo se catra
i ei pei fau la'e di'u cfari gau
i pu lo nu cusku lo du'u na djuno lo du'u ei ma kau se zukte cu pa mai jarco tu'a lo nabmi
i ei pei fau la'e di'u cfari gau
i lo nunji'i be lo ba'o se catra ka'e nai se jinga za'u re'u
i ra'unai cusku lo du'u na djuno lo danfu
i ra'u do'anai pensi lo du'u zukte makau fi'o te frati
i ei pei fau la'e di'u gau cfari

ni'o lo gunta nunjamna cu se rinka tu'a na'e bo lo prenu poi so'u mei
i cfari fau lo nu mi'o tinbe lo catna
i cfari fau lo nu fesgau lo rolpretrusi'o
i fi'o se pensi di'u lo tadji be lo icin jecra'abe'e noi se jatna la xacimoton torun cu ckape
i la xacimoton torun ca lo nu jatna lo osakan gugypau pu ku cu gasnu lo nu lo kimigaion kilitsun flalu noi na ku jai se cusku je jai se nupre pu ku fau lo flakamni cmima nuncu'a cu jai se jdice ta'i tu'a lo so'imei noi icin jecra'abe'e cmima
i sanga la kimigaion noi gugde selsa'a ku'o na ku gija sanbi'o fau na ku vau fa lo prenu poi no'a ki'u lo nu zungi tu'a lo gunta nunjamna
i sfasa lo na'e sanbi'o fau lo nu na ku pensi di'u kei fa lo ckaji be lo se tarti be lo catni poi na sai zungi tu'a lo nunjamna ku'o
i je lo prenu poi me la'e di'u cu mutce lo ka ckape
i ji'a lo nu tu'i lo ckule noi se zvati lo verba cu jarco tu'a la'e de'u lo verba kei noi se bebna cu se gasnu la xacimoton torun

ni'o lo gugdejupu cu gugde pe lo flakamni rolpretrusi'o
i ie na ku ro da se cenba lo nuncu'a ka'e
i ku'i lo so'o mei cu se cenba lo nuncu'a ku po'o ka'e
i lo nuncu'a cu nu cuxna lo prane kei na je nu gasnu lo nu lo xlali traji cu se cuxna na
i lo nu na zukte lo nuncu'a cu mintu lo nu curmi lo nu lo xlali traji cu se cuxna
i mi cpedu do poi nuncu'a se krali ku'o lo nu zukte lo nuncu'a fau lo nuncu'a ba
i mu'o
li'u

ni'o la xacimoton torun de'i lo mintu cu ji'a gasnu lo nu lo osakan tcadu se jecybriju cu spuda lo preti be lo jecra'a sidbo

2012-02-19

Jene parolado apud la stacidomo Ikeda en la 9a feburuari por "Ankaŭ mi volas diri" de Grupo de la 9a artikolo de la konstitucio:
Saluton.
Mi nomiĝas OKAŬ Ĵunpe, kaj loĝas en Ueikeda.
La perforta konfliko en Afganio ne finis.
Lastjare 3021 civiloj estis murditaj en la perforta konflikto en Afganio.
Mi citas nombrojn el Unuiĝintaj Nacioj - 410 da ili murdiĝis de la armeoj de Usono kaj aliaj landoj kaj la afgana registaro.
Pli ol dek jaroj pasis post, ke Usono atakis Afghanio, sed la milito ne finis, tio estas la nuna situacio.

Japanio malvenkis en la antaŭa milito, kaj fariĝis aliancano de Usono, kaj fariĝis ŝajne paca.
Sed Usono daŭre atakis aliajn landojn. Usono estas lando, kiu invadas.
La armea industrio en Usono aŭ oleo en aliaj landoj konsideriĝas kiel kialoj.
Usono diris, ke la Irak havas armilo de amasa detruo, kaj atakis, sed armilo de amasa detruo ne troviĝis, kaj tio estis mensogo.
Usono atakis Afganio kun kialo de la atako en New York en la 11a septembro 2001.
Japanio rilatas tion.
El usonaj militbazoj en Japanio por Irak milito kaj Afgana milito armeoj iras.
Kaj Japanio pagis la multege da mono, 700 mil miliono da enoj por la usona armea bazoj.

Kio okazus, se Nordkoreo aŭ Ĉinio atakus nin, oni ofte diras.
Sed antaŭ ol diri, kio okazus, se ni atakiĝus ...
Reale nun atakis aliajn landojn Usono. Ni, kiuj estas aliancano de Usono estas atakantaj.
Tion ni bezonas pensi, ĉu ne?
Usono ne ratifikas Traktato pri kompleta malpermeso de provoj pri atomaj armiloj.
Ne konvinkante, ke la havanto de atomaj armiloj insistas, ke alioj ne havu ilin.
Unue ĉesi ataki mem estas baza principo, ĉu ne?

Armilo uziĝas por murdi aŭ vundi homojn.
Ne eblas, ke vivoj de murditaj homoj ree gajniĝas.
Militon okazigas civilanoj.
Oni povas ĉesi militojn, se oni volas.
Ni ne rigardu militojn necesaj per sinteno de spekulantoj, sed rigardu el la vidpunkto de murdatoj. Tio bezoniĝas, ĉu ne?
Ni ne diru, ke ni ne scias, kion fari, sed ni unue montru problemojn. Per tio ni devas komenci, ĉu ne?
Ne eblas, ke vivoj de murditij homoj ree gajniĝas.
Ni ne diru, ke ni ne scias respondon, sed ni almenaŭ pensu, kion fari al tio.
Per tio ni devas komenci, ĉu ne?

Invadaj militoj okaziĝas ne de parteto da homoj.
Ili komencas, per, ke ni obeas potenculojn.
Ili komencas, per, ke ni forĵetas demokration.
En tiu senco la maniero de politika grupo Isin, gvidata de TORU HASHIMOTO, estas danĝera.
TORU HASHIMOTO, kiam li estas gubernestro en Osaka, igis, ke la leĝo de stariĝado por la landa kanto, kiu ili ne menciis en la voĉdono, validiĝas, per decido de plejmulto da Isin-anoj.
Tiuj, kiuj ne kantas la landan kanton, aŭ ne starigas sin, agas tiel, ĉar ili bedaŭras la invadan militon.
Ne pensi tion, sed puni tiujn, kiuj ne stariĝas, estas sinteno de potenculoj, kiuj tute ne bedaŭras la invadan militon, kaj tia persono estas tre danĝera.
Krome TORU HASHIMOTO igis, ke en lernejoj, kie infanoj ĉeestas, tio montriĝas al infanoj. Tia stulton faras TORU HASHIMOTO.

Japanio estas lando de parlamenta demokratio.
Voĉdono ne ŝanĝas ĉion, sed iuj ŝanĝiĝas nur per voĉdono.
Voĉdono ne estas elekti iun idealan, sed igi, ke la ulo plej malbona ne elektiĝu.
Ne voĉdoni estas sama kiel lasi la ulon plej malbonan elektiĝi.
Ni devas elekti personojn, aŭ politikajn partiojn, kiuj estas pli bonaj, eĉ se ili estas bonaj je nur unu aŭ du punktoj.
Mi petas vin, kiuj rajtas voĉdoni, voĉdonu.

Fino.

TORU HASHIMOTO eĉ komencis enketo por la urbaj oficistoj en la urbo Osaka pri iliaj politikaj pensoj en la sama tago.

2012-02-15

自殺未遂のたび、自分を大切にしろと言われ、自分を大切にすると「現実をみろ」「のんきでいい身分だな」とやっかまれる。
(『週刊金曜日』2012年2月10日号にせんじゅうにねんにがつとうかごう掲載けいさいされたあるかたによる投書とうしょ
社会しゃかいからきるなとわれているのだとすれば、きることそのものが反逆はんぎゃく表現ひょうげんだ。
きることそのものが芸術げいじゅつだ。
なになんでもきてやれ!

Ĉiam mi intencas simmortigi, oni diras al mi, ke mi devu zorgi pri mi, kaj kiam mi zorgas pri mi, oni envias kaj diras, "Vidu la realon" kaj "Mi envias, ke vi trankvilas kaj noblas".
(El legantletero de iu en SYÛKANKINYÔBI en la 10a de februari 2012.)
Se la socio diras, "Ne vivu", vivado mem estas montrado de ribelo.
Vivado mem estas arto.
Vivu iel ajn!

i lu
mi fau ro nu zukte fi lo nu catra vo'a cu te cusku lo du'u ei kurji vo'a
i je mi fau lo nu kurji vo'a cu se jilra se cu'u mu'a lu ko pensi lo zasti li'u je lu i'onai do surla gi'e nobli li'u
li'u
(to te sitna lo velkarnyxa'a be fi lo prenu be'o noi se karni la cukankiniobin de'i li renoparepi'erepi'epano toi)
i mu'ei lo du'uu te cusku fi lo kluce'u fe lo du'u i'enai jmive kei kei lo nu jmive cu ckaji lo ka nunja'o be fi lo ka pante
i lo nu jmive cu ckaji lo ka larcu
i aucai e'u le'o jmive

uyu
ama elieniomatu a o elienionse a antisa u epa uso ama uka ahese anho
aya ama elienionse a uyu o ese aniotu uyutie e uyu eniusonsutie a ate opitatie e oke uyutie u epa onieniusonsutie uyutie
uyutie
uyo ateta uso atetaniototo uhe anla umu isukankinyobi uka ako apiatulolomenpu tunpu melo uyotie
aya iyu aleniata epa uyu o ehe iya iyutie eya aniehe aniekasate uka anietakotie
aya aniehe anioho
aya o ehe awa

2012-02-11

九日ここのか池田駅前いけだえきまえでの池田いけだ九条きゅうじょうかい宣伝せんでんで、「わたしいたい」に参加さんかしたわたし発言はつげん

こんにちは。
上池田うえいけだ大川おおかわ純平じゅんぺいです。

アフガニスタンの武力ぶりょく紛争ふんそうはまだわっていません。
去年きょねんアフガニスタンで武力ぶりょくによってころされた民間人みんかんじんは3021にんだそうです。
かずつづけています。
国連こくれんによる数字すうじですが、そのうち410にんはアメリカぐんなど外国軍がいこくぐんとアフガニスタン政府側せいふがわ攻撃こうげきによります。
アメリカが2001ねんにアフガニスタンを攻撃こうげきしてから10ねん以上いじょうがたちますが、武力ぶりょく紛争ふんそうまっていないのが現状げんじょうです。

日本にほんさき戦争せんそうでアメリカにけました。
それからアメリカの同盟国どうめいこくになり、一見いっけん平和へいわなようになりました。
しかしアメリカはほかくにへの攻撃こうげきつづけています。
 アメリカは侵略しんりゃくするくにです。
アメリカの軍需ぐんじゅ産業さんぎょうほかくに石油せきゆなどが、攻撃こうげき理由りゆうかんがえられます。
イラクに大量たいりょう破壊はかい兵器へいきがあるとって攻撃こうげきしましたが、大量たいりょう破壊はかい兵器へいきはなく、あれはうそでした。
アフガニスタンには、9.11のニューヨークのテロの報復ほうふくという名目めいもく攻撃こうげきしました。

日本にほん無関係むかんけいではありません。
日本にほんのアメリカぐん基地きちから、イラク戦争せんそう、アフガニスタン戦争せんそうへと軍隊ぐんたいっています。
そのアメリカの基地きち七千億円ななせんおくえんちかくという莫大ばくだいかねとうじているのが日本にほんです。

北朝鮮きたちょうせん中国ちゅうごくから攻撃こうげきされたらどうするのか、とよくわれます。
しかし攻撃こうげきされたらどうするかを心配しんぱいするまえに。
実際じっさいいまほかくに攻撃こうげきしているのがアメリカです。アメリカと同盟国どうめいこくわたしたちは攻撃こうげきしているがわです。
そのことをかんがえる必要ひつようがあるのではないでしょうか。
包括的ほうかつてき核実験かくじっけん禁止きんし条約じょうやくをアメリカは批准ひじゅんしていません。
かくっているくにかくつなとっても、なん説得力せっとくりょくもありません。
まずは自分じぶんから攻撃こうげきするのをやめる、それが基本きほんではないでしょうか。

武器ぶきというのはひところすため、きずつけるためのものです。
ころされたひといのちかえしがつきません。
戦争せんそうこすのは国民こくみんです。
戦争せんそうというのはやめようとおもえばやめられます。
武力ぶりょく紛争ふんそう仕方しかたのないことと傍観者的ぼうかんしゃてきるのではなく、ころされるがわ立場たちばってみること、それが必要ひつようではないでしょうか。
どうしたらよいのかわからないとまえに、まずは問題もんだい提起ていきをする、そこからはじめるべきではないでしょうか。
ころされたひといのちというのはかえしがつきません。
こたえがわからないとまえに、これをどうしようか、とせめてかんがえることからはじめるべきではないでしょうか。

侵略しんりゃく戦争せんそうというのは、一部いちぶひとたちがこすものではありません。
わたしたちが権力者けんりょくしゃしたがうことからはじまります。
民主みんしゅ主義しゅぎてることからはじまります。
その意味いみで、橋下はしもととおるさんひきいる維新いしんかいのやりかた危険きけんなものです。
橋下はしもととおるさんは大阪府おおさかふ知事ちじのときに、選挙せんきょ公約こうやくにもなかったきみ起立きりつ条例じょうれい維新いしんかい多数決たすうけつ可決かけつさせました。
きみうたわないひと起立きりつしないひとというのは、侵略しんりゃく戦争せんそうへの反省はんせいから、そうしているものです。
それをかんがえずに起立きりつしないひとばっするというのは、侵略しんりゃく戦争せんそうをまったく反省はんせいしていない権力者けんりょくしゃ態度たいどであり、このようなひと非常ひじょう危険きけんです。
しかもそれを子供こどものいる学校がっこう子供こどもにみせびらかすというばかげたことをしているのが橋下はしもととおるさんです。

日本にほんは、一応いちおう議会制ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎくにです。
選挙せんきょですべてがわるわけではありませんが、選挙せんきょでしかわらないこともあります。
理想りそうひとえらぶのではなく、最悪さいあくひとえらばれないようにするのが選挙せんきょです。
投票とうひょうかないことは、最悪さいあくひとえらばれるのをほうっているのとおなじです。
理想りそうでなくても、一点いってんでも二点にてんでもましなひと政党せいとうえらぶべきです。
有権者ゆうけんしゃみなさんには、選挙せんきょさいには、投票とうひょうされることをおねがいします。

以上いじょうです。


これをったのは今日きょうだが、橋下はしもととおるさんによる大阪市おおさかし職員しょくいんへの思想しそう調査ちょうさアンケート↓
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/2939016.html

2012-02-08

なにをでれでれ言っているのだ、負け犬根性ではないか、勝つ気を持て、と叱声が飛んできそうだが、市民運動の特徴は、よくも悪くも、みんながセーノで力むわけにいかないところでね、私が力んでた時にはあんたは力んでなかったし、あんたが力んだ時には私はくたびれてるし、というふうなのよ。私が疲れたら、あんた力んでちょうだい。いや、今ってことじゃなくて。こういう調子でいれば永遠に疲れないかもよ。
(中山千夏。「リブらんか」。『週刊金曜日』。2012.2.3 (881号)。50ページ。)

こういうのはけっこうきだ。

"Kion vi diras senfare? Tio ja estas malvenkula eco. Volu venki!", eble aŭdiĝos krio de riproĉo. Sed la karaktero de civilaj movadoj estas, ke ne eblas, ke ĉiuj streĉas sin kune per unu fojo. "Kiam mi streĉas min, vi ne streĉas vin, kaj kiam vi streĉas vin, mi lacis". Tiel okazas. "Kiam mi lacas, vi streĉu vin. Ne, ne nun. Se tiel daŭros, ni eble neniam lacos".
(El "Feminismumu" de Nakayama Chinatsu en SYÛKAN KINYÔBI en la 3a de februari 2012. Paĝo 50.)

Tio sufiĉe plaĉas min.


i lu i'enai do cando cusku
i i'enai ckaji lo ka ce'u jivna cirko gerku pe'a
i ko zukte fi lo nu jivna jinga li'u
tolzau se cusku co krixa ka'e
i ku'i xamgu gija xlali fa la'e di'e
i se ju lo nu je'acmi jecra'agaftoi cu ckaji lo ka na ku cumki fa lo nu ro prenu cu fu'e binxo lo tsali fu'o pe'a ta'i lo nu kansa [to'i jundi lo pa mei toi] doi o'e
i ke'u
lu fau lo nu ca'o ku mi fu'e binxo lo tsali fu'o kei ku pu ku na ku do fu'e binxo lo tsali fu'o pe'a
i je fau lo nu do fu'e binxo lo tsali fu'o pe'a kei mi tatpi ca'o li'u
i ie me la'e di'u doi o'e
i lu fau lo nu mi tatpi kei ko fu'e tratygau lo sluji fu'o pe'a vau e'o doi o'e
i na'i
i go'i ca na'e bo lo cabna
i ju'oru'e mu'ei lo su'u la'e de'u tadji kei ku ba ze'e ku mi'o binxo lo tatpi na doi o'e li'u li'u
(to te sitna la'e
lu ko nimyzi'egau gaftoi vau e'usai li'u
lu'u noi se finti la nakaiaman tcinatsun zi'e se karni la cukan kiniobin de'i li renopare pi'e re pi'e ci toi)

i mi nelci ieru'e la'e de'u


uyu ate epa anke
aya ate olilo
aya o opulo uyutie
u epa anlike iwa
aya eyu ata ekoto onimeniahese iwatie a alo eyo oke iwa e oketie iwa a eyu alo asemata oniesanseniataniale
aya ama uya epiopusu uyatie a ate uya epiopusu uyatie iya
aya ate uya epiopusu uyatie a ama ehulu ekototie
aya alo awa
aya iyu ama ehulu ekototie eya o uya epiopusu uyatie
aya oto iya
aya iyu alo eya iwa ehulu iya onsu ekototie
uyo alo u uniasama
uyu  o eniopepasaniatanionta uyutie
u esisu inakayama itinatu uka isukan ikinyobin u apiatulometuupu tuupu soupu uyotie

aya ama emolu alo

2012-02-03

きのこのチカラ 飯沢耕太郎/著 マガジンハウス

分類

比較に笑ってしまった。「組み込まれる‐はみ出す」「固定される‐動きまわる」(139ページ)

(池田市立いけだしりつ図書館としょかん書評しょひょう)
http://www.lib-ikedacity.jp/opw/OPW/OPWREVIEWLIST.CSP?DB=LIB&SID=QpkI4DNGF2_FgChgtq3Op_qciEgoyMRvFUkWBn5lDR4N&MODE=1&PID2=OPWSRCH1&SRCID=1&SORT=1&HOLD=NOHOLD&WRTCOUNT=10&PAGE=1&LID=1&GBID=B11498921&ALL=&LPAGE=1&CNO=&CMODE=&LISTNAME=&keepid=


Komento por la municipa biblioteko de Ikeda pri Povo de fungoj de IIZAWA KOTARO:
Enklasigo

Komparado igis min rideti. - "Adaptiĝi enen - Ne ebli adaptiĝi enen",
"Fiksiĝi - Moviĝi ĉien kaj tien" (Paĝo 139)


ni'o di'e ikedan tcadu cukdi'u ke cukta pinka la'e lu
mledi vlipa
li'u lu'u noi se finti la iziman kotaron

ni'o lu
klesi nunfi'i

ni'o tu'a lo nunkarbi cu rinka lo nu mi cisma
i lu
ka pe'a ce'u se setca co se matygau
li'u je lu
ka pe'a ce'u tolmapti gije bancu lo korbi
li'u
i lu
ka pe'a ce'u se lasna
li'u je lu
ka pe'a ce'u muvdu ve'a
li'u (to papri fa lo pacisomoi toi)
li'u


aniepenso oniapuka usonsu alunionialeniapuka u uho asito ikeda
aya uyu
anieniunmu
aya epenso aniomotie a omusa
aya uyu
u epu oniumu
uyutie e uyu
eyo osasate
uyutie

aya uyu
u epu
uyutie e uyu
esu
uyutie uyo apapila oniapiamesope uyotie
uyutie

2012-02-01

言葉ことばについてかんがえていて、うしないそうになった。
いて、深呼吸しんこきゅうをしよう。
まず、わたし大声おおごえいたいのだが、言葉ことばひとつたえるためにあるのであって、真実しんじつかんがえるためにあるのではない。
暗闇くらやみというのはその存在そんざいみとめればよいのであって、暗闇くらやみをのぞきこんではならない。
理解りかいしてはいけないことがあるのではないだろうか。かんがえてはいけないことがあるのではないだろうか。
からだはそれを警告けいこくしているとおもう。

問題もんだいとのみに必要ひつようなのは、思考しこうではなくておもいやりだとおもう。

Mi preskaŭ svenis, kiam mi pensadis pri vorto.
Mi trankvilu, kaj spiru profunde.
Unue - mi volas diri laŭte - lingvon oni havas por komuniki, kaj ne por pensi la veron.
Pri la mallumo oni konsciu, sed oni ne permesiĝas fikse rigardi ĝin.
Probable oni ne permesiĝas kompreni ion. Probable oni ne permesiĝas pensi ion.
La korpo avertas tion, miaopinie.

Mi opinias, ke kion oni bezonas en trakti problemojn, estas ne pensado, sed simpatiado.

ni'o pu ku fau lo nu pensi lo valsi kei mi ganse lo ka lakne fa lo nu sanji de'a
i e'udai surla gije vasxu lo mutce
i pamai lo bangu cu ckaji lo ka se pilno fi lo nu tavla kei je nai lo nu pensi lo jetnu
i mi di'u cusku co cladu vau au
i lo manku zo'u sanji lo nu zasti kei vau e'a gije ku'i catlu vau e'anai
i ju'o lo nu jimpe da cu se curmi na
i ju'o lo nu pensi da cu se curmi na
i lo xadni cu kajde fi la'e di'u vau pe'i

ni'o pe'i sarcu lo nu se nabmi kei fa lo nunpei na je lo nunke'i

ama epenso alosa a ama ematatie eliepenso a antisa u eme iwa
awa ama o eniotemensotie e emito apelu osilu
aya oniapiame alosa eyo uso epa usonsu ahito e iya epenso aniotu a ama eho epa osanto
aya alometie esesute a emo eke
aya emotie ese alometie
aya ahe u elika a emotie owa
aya ahe u epenso a emotie owa
aya ama eniekila antisa uka ama a ama epenso

aya aniepenso iya a aniehulute awa a atinsa awa u eho uso eniasunka uka asapo a ama epenso